こんにちは。スガワラ(@carex_take_blog)です。
皆さんはローソンに募金箱があるのは知っていますか?
「知ってるわ舐めんなボケ」って思う方がほとんどたと思います。自分もそんな反応すると思います。
では、その募金箱の中身が何に使われているかをご存知の方はいらっしゃいますか?
これ、意外と知らない人が多いっていうか、そこまで気にしてない人がほとんどだと思います。
実は、募金の使い道の1つとして、「夢を応援基金」という、東日本大震災で被災した学生に奨学金を付与する事業があるんです。
自分は、高校2年生から6年間に渡って、その奨学金をいただいてきました。
この奨学金なしでは、確実に大学卒業に至ることができなかったので、感謝の思いを綴ろうとこの記事を執筆いたしました。
目次
2011年3月11日、家が突然無くなった
7年前の3月11日。この日は中学校の卒業式前日でした。みんなでお世話になった教室を掃除している最中、いきなり地震が起こりました。
いつもはすぐ止むのですが、この日は嫌に長く続く地震だったのを覚えています。
避難訓練で練習していた通り、みんなで学校の裏山に逃げました。
自分の通っていた中学校は目と鼻の先に海があるような立地だったので、津波に備えての避難訓練も実施していたんです。
この地震が起こる2日前にも地震があり、津波注意報も出たんですが結局何もなく解除されたので、今回もきっと同じだろうと思っていました。
外れて欲しくない予想が見事に外れ、最悪の結末を迎えました。
目の前の海から黒い波が押し寄せ、あっという間に校庭を覆い、学校まで入っていくのが高台から見えました。
「さすがにここまでは来ないだろ」
同級生はみんな同じことを考えていたと思います。
その刹那、「ドンッ!ガシャーン!!」
と、目の前にある学校の窓ガラスが割れた音が聞こえます。
次の瞬間には、命の危機を感じてみんなで高台の更に上へと駆け上り始めました。
中には腰を抜かして動けない人もいて、みんなで介抱しながら、さらに上へと登ります。
高台を登ったところは、中学校がある町内を広く見渡せる丘に繋がっていました。
高台で町内を見渡したとき、自分は初めて「絶望」という言葉の意味がわかりました。
校庭に入ってきた黒い波が、今度は町を飲み込んでいるんです。
ふと、自分の家がある場所を探しましたが、波にすっかり浸かってしまい、屋根も見えませんでした。
この高台の近くには住宅がいくつかあったので、学校のみんなは散らばって各家庭にお世話になることにし、夜を明かしました。
津波が起きてから夜が明けるまで、どのように過ごしていたかはあまり覚えていません。
次の日の卒業式で歌う予定だった、森山直太朗の「さくら」をみんなで身を寄せ合いながら歌っていたことを覚えています。
非情にも、街の電気がストップしている影響で、夜空に浮かぶ星が嫌なくらい綺麗でした。
次の日には、同級生の親が山を越えて迎えにきたりして、みんなそれぞらの家族のもとに戻っていきました。
自分は運良く高台に曽祖母の家があったため、そのまま避難している家に住み続けることになりました。
このとき、母親以外の家族とは合流できていて、残るは母親といった状況でした。
震災翌日、海辺がひどい有様だったので、父が街へと続くトンネルをくぐって朝早くから母を探しに行きました。
自分は怖くて怖くて、曾祖母の家にとどまっていました。
夕方、父が帰ってきて開口1番
「お母さん、生きてたよ!!!」
どうやらなんとか津波を逃れて、高台に高台にある小学校に逃げてたみたいです
次の日には家族でたまたま避難させていた車に乗って高台の小学校へ迎えに行きました
そんな感じで自分は家族一同無事でした
そこから避難生活が始まるわけですが、これについて長くなってしまうのであまり詳しく触れません。
父からの一言
被災地での避難生活を初めて約2週間後、父からある一言を告げられます。
「家族みんなで、遠くの、どこか安全なところに引っ越そう」
この言葉を告げられた自分は、安心と不安が入り混じっていました。
少し話の軸から逸れますが、自分は小学3年生からずっと野球を続けていました。
この当時、「同じ高校で野球をしよう」と約束していた友達が十数人いて、甲子園を目指そうと中学生のうちから燃えていました。遠くに引っ越してしまうと、その友達と一緒に野球ができないことは明白です。
自分たち家族が生き延びるためには遠くに引っ越すしかない。
でも、あいつらと一緒に野球がしたい。
葛藤に葛藤が重なって、めっちゃ泣きました。15歳の自分の人生の中では1番泣いたと思います。
母の実家が関東にあったので、そっちの方に行くか、岩手県の内陸部に引っ越すか家族で話し合いました。その結果、関東には行かずに、同じ岩手県内の内陸部に引っ越すことに決まりました。
自分はこのとき中学3年生だったので、高校入試を受験して、地元の高校から合格をいただいていました。合格発表は、父から引っ越しの可能性を告げられてすぐだったので、「受かったところでどうせ通えないしな」って思って、全く嬉しくなかったことを覚えています。
引っ越すということは転校するということになるわけですが、教育委員会に問い合わせたところ、今回は特別措置をとって、内陸部の方の高校で新入生かつ転入生という扱いで受け入れていただけることに決まりました。
高校受験のときには1ミリも視野に入れていなかった高校に特別措置で入学することに。
この高校、岩手県内ではトップ10に入るくらいの進学校で、かつ野球も強い学校だということは入学直前に知りました。
被災地から引っ越して間もなくの時期だったので家族全体はバタバタしていましたが、少しのワクワクを抱えて、全く見知らぬ土地の新生活が始まりました。
高校1年生の夏、「夢を応援基金」との出会い
見知らぬ土地での生活にもある程度は慣れた来た高1の夏あたり、奨学金関の担当がという先生に職員室に呼ばれました。
なんだなんだと聞きに行ったところ、ローソンの奨学金の案内を渡されました。
全員に渡す奨学金ではなく、選考がある奨学金だけど挑戦してみたらどうかとのことでした。ちなみに奨学金の詳細、選抜の要項は以下の通り(記憶が曖昧ですが)
- 月額3万円を最長で大学卒業まで
- 返還の必要はない
- 留年や休学をしたら受給は止まる
- 選抜の方法は、「20才の自分の日記」を書いてもらい、それをもとに事務局で選抜
- 予定している奨学生の枠は1,000人
- 落選しても、けっこうな額のローソンで使える商品券がもらえる(金額忘れました)
2つ返事で申し込みました。
そのときに書いた作文がこんな感じだったと思います
2015年◯月◯日
自分は今、スポーツトレーナーになるために大学に通っている。
昨日は大学の教授の部屋に呼ばれて、たくさんお話をいただいてきた。
これからもスポーツトレーナーになるための勉強をたくさんしていきたい
みたいなことを書いたと思うんですが、ほとんど記憶にありません笑
文量はこの5倍くらいは書いてるはずなので安心してください。
1週間ほど先生の添削を受けながら提出したところ、見事に合格。
高校1年生の夏から奨学金を受け始めます。
高校の頃は、受験の費用にとっておこうということで、いただいた奨学金にはほとんど手をつけませんでいした。
高校の頃に、この奨学金を受けていないと出会えなかったものや、受けられなかったサービスがいくつかありました。
奨学金のおかげで体験できたもの
塾に通う
高校でも野球を続けていたので、高校野球が終わった直後から塾に通い始めたんですが、貯めていた奨学金ほぼ全てを塾の費用に充てました。
河合塾の映像授業を受ける塾に通っていたんですが、この塾に通っていたおかげで点数が爆増して今の大学に入学ができました。
普段から勉強する習慣が全くなかったので、奨学金がなかったら塾に通うこともできず、受験にも盛大に失敗していたと思います。
大学に進学できたのは「夢を応援基金」があったおかげです。
ボランティアに参加する
高3の夏、「夢を応援基金」の奨学生を対象にしてボランティアの募集がかけられました。
これまでボランティアと名のついたものはやりましたが、どれも自分が所属している部活などが団体として参加しているもので、自分個人とし参加したことはありませんでした。
募集がかかったボランティアの期間が、野球を引退してすぐのところで行われるものだったので、即決で参加を決めました。親には事後報告です。
このボランティアは、宮城県登米市にある「手のひらに太陽の家」という、福島で被災された方々を支援する施設の運営ボランティアでした。
震災直後の福島では、放射能の関係で外出が制限される状態でした。
子供たちは外で思いっきり遊ぶこともできません。
そんな子供たちに、外だけでなく自然の中にも入って思いっきり遊んでもらおうと作った施設が、「手のひらに太陽の家」です。
自分から参加したボランティアは初めてで、誰かの生活に貢献するという経験も初めてでした。
ボランティアの時間はとても楽しくて、人のためになる仕事がしたいなと決意した瞬間でした
そこから受験勉強始めたんですが勉強しまくって勉強しまくって、センター試験前日に当時付き合っていた彼女にフラれたりしましたが、どうにか国立大学の理学療法学科に合格することができました。
これもローソンの奨学金を受けていなかったら体験できなかったと思うと感謝の気持ちでいっぱいです。
おそらく普通の高校生であれば、面倒さが勝って、自分から志願してボランティアすることってなかなかないと思います。
いわゆる「人とは違うことをする」ということに高校生の自分は魅入ってしまいました
この「人と違うことがしたい」と言う精神は大学に入って僕の人生が加速するきっかけになります
大学でのたくさんの出会い
高校野球が終わってから猛勉強をした結果、理学療法学科がある国公立大学に入学することができました。大学に入って、自分の今までの人生にとって重要な意味を持つことになるであろう出会いがいくつか生まれます。
大学1年生、とある先輩との出会い
大学生と言えばそう。サークルです。
大学1年生の自分は、2つのサークルを選びました。10年間続けていた野球を引き続き続けたいと思いから野球サークル、人とは違うことをしたいと言う思いから、”高校生と一緒にキャリアについて考える”という、普通では考えられないようなサークルに入りました。
野球サークルでの出会いはとても楽しい人と出会うことましたが、自分の視野が広がるほどの出会いではありませんでした。(これ読んでる野球サークルの人ごめん!!)
自分の人生にとって大きな分岐点であったと今になって確実に言えるのは、高校生とキャリアについて考えるというサークルの方です。
おおざっぱな活動内容だけ書きましたが、字面からも見てわかる通り、普通に暮らしている分には変な人しか集まらないサークルでした。
「自分は普通の人とは違うことがしたい」「普通のの生き方をしたくはない」「俺・私はこんな生き方をしたいんだ」って言う考えを持っている人がたくさん集まったサークルでした。大学内では、俗に言う”意識高い系”が集まったサークル扱いでしたが、自分にとっては最高の環境でした。
このサークルに所属したことで、自分の人生を左右することになる先輩と出会いました。(残念ながら色恋沙汰ではありません笑)
その先輩は自分の2個上の先輩で、学外でもたくさんの活動をされている方でした。
この先輩に、学外の活動、しかも大学生ではなく社会人の方を中心としたコミュニティに誘っていただけたことで、僕の人生は更に加速しました。
そのコミュニティは、大人たちが自分の「夢」について全力でプレゼンをするイベントを企画している方々の集まりでした。
18歳の自分は天地がひっくり返るほどの衝撃を受けました。
「大人でも夢見ていいんだ!!!」
「ってか夢見る大人っているんだ!!!」
今になってみれば何言ってんだこいつって感じですが、大学に入学するまでは、ワクワクしている大人はほとんど見たことなくて、常に何かに疲れている大人ばかり見てきました。
何歳になっても夢見てもいいし、何歳になっても人生を楽しんでいい。
18歳の内に、このことを気づけたのはかなりラッキーだったんじゃないかと思っています。
またこの先輩、旅が好きということも自分と共通していて、この先輩から「TABIPPO」という団体の情報をもらいました。
後ほど書きますが、大学3年生の頃にTABIPPOという会社の学生スタッフとして、仙台支部で活動することになります。
旅との出会い
大学1年生の春休み、青春18きっぷを利用して初めての1人旅に挑戦しました。
話はややそれますが、この頃の自分には半年ほど思いを寄せていた女の子いました。
ただ、この女の子を同時期に好きだったライバルがいたんです。
お互い、その子が好きだということを把握していて、いつアタックするかタイミングを見計らっているという非常に楽しい状態。
初めての1人旅に出発する1週間前、そのライバルが僕の部屋で好きな女の子に告白し、成功して付き合うという地獄のような失恋をしました。
ワクワクしていた1人旅が傷心旅行に早変わりです。
絶望をたくさん抱えて挑戦した中ではありましたが、初めての一人旅は衝撃的な出来事の連続でした。
見知らぬ土地を1週間も1人で渡り歩くと言う経験はもちろん初めて。
ゲストハウスに泊まって他の旅人と交流することも初めて。
車窓からの見る日本海があんなに綺麗だと思いませんでした。
見たもの、聞いたもの、旅で出会った出来事全てが壮大で、旅が終わる頃には失恋なんぞどうでもよくなってしまいました。
この時点で
「旅やべえ!!!!めっちゃ好きだ!!!!」
って状態に陥ってしまい、旅にどんどんハマることに。
気づけば33都道府県に訪れていました。しまいにはヒッチハイクにも挑戦して、福岡から青森まで帰ったり、四国1周ヒッチハイクをしたりしました。ヒッチハイクでは累計70台の車にお世話になっています。
旅との出会うことができたおかげで、見える景色全てが楽しくなってしまったので、毎日がハッピーの連続です。
TABIPPOとの出会い
すっかり旅の魅力に取り憑かれていた自分は、大学3年生の時に「世界一周団体TABIPPO」という団体で旅を広める活動を始めました。
そこでの活動というよりかは、TABIPPOを通して出会った人たちに衝撃を受けました。
自分自身、旅は好きで、旅をしている自分に誇りを持っていました。その当時は。
18きっぷで旅したことすらも周りには自慢できる子ヒッチハイクしたことなんてもはや武勇伝のように語っていました。旅したことがあるってだけで天狗になっていたんです。
同じような話をTABIPPOのメンバーにしたところ、全く驚かれず、さもヒッチハイクが当たり前かのような反応をされたのが強く印象に残っています。当時の自分にはこれがめちゃくちゃ衝撃的で、自分にとって最高なコミュニティになるだろうなっていうのを確信した瞬間でした。
このTABIPPOという団体は東京に本社があるのですが、自分が活動していた当初は仙台・東京・名古屋・京都・福岡・沖縄の全国6拠点に学生支部がありました。
自分は仙台支部で活動していたんですが、他の支部のスタッフとも交流する機会が何回かありました。
この団体のメンバーは本当に息を吐くように旅をしている人ばっかりで、長期休みになると世界各地に散らばるため、Twitterのタイムラインには世界何カ国もの日常が流れていました。
こんな刺激的なコミュニティは、青森にいれば出会えないと思うと、とても最高な時間でした。
このコミュニティで得たことは旅に関しての情報だけではなくて、
「自分の人生なんだから自分の好きなように生きていいんだ」
という、当たり前っちゃ当たり前の考え方を得ます。
医療職を志していた自分にとって、この考え方を頭の中に入れることができたのはすごく大きなことだと思っています。
TABIPPOとの出会いがなかったら、こんなに自由奔放生き方はできていなかった何というふうに思っています。
ブログとの出会い
大学3年生の冬にブログという稼ぎ方に出会いました。
この時期は、病院で6週間の実習の真っ最中だったんですが、万年金欠の僕はとてもお金が欲しかったんです。
実習中は基本的にバイトは禁止されているので、いわゆる副業と呼ばれるジャンルのPCを駆使する仕事でどうにかお金が稼げないかと思って、正直なところ実習のレポートそっちのけで調べてました。
ウェブライターをやろうか、ブロガーになってしまおうか、情報商材のアフィリエイトに手を出そうかいろいろ考えていた時に、たまたま近くにブログで20万円を稼いでいる方がセミナーを開くとの情報を聞きつけました。
その方自身はとても信頼できる方で、ブログのセミナーを開催すると言うのでこれはチャンスかなと思って連絡して実際にお話を聞きに伺いました。
話を聞いた当初は「やばい。これ楽勝なやつや」という軽い気持ちでブログに取り掛かりましたが、記事が書けないわ、お金は稼げないわで最悪の状態に陥ります。
早くもブログやめたいってなりましたが、何故か地道にコツコツ続けて今に至っております。
現在のブログ収益は1万円〜2万円ほど。
大物ブロガーのように月数十万円の収益がもし発生していたら、就職すると言う選択肢はおそらく消え失せていたと思います。ただ、書いたとおり現在の収益ではさすがに生活ができないなと思って就職という道を選びました。
春からは(国試に受かっていれば)理学療法士として働くことになります。
募金してくださった皆様へ
以上が、「夢を応援基金」が僕の人生に及ぼした出会いです。
「夢を応援基金」を借りてお金をいただけただけではなく、奨学金を運営している団体が企画したボランティアに参加したことで「人と違うことをするのは楽しい」「人のためになることをするのは楽しい」という価値観を得ることができました。価値観を得たことで、普通の学生とは少し違うことに挑戦した結果、自分の人生や生き方を大きく見つめ直す機会をいただきました。
大学の進学に関しても、独学ではとても受験戦争に勝つことはできなかったと思います。
貯めていた奨学金を塾の費用に充てたことで、学力を飛躍的に伸ばすことができました。
そもそも、月3万円のこの奨学金がなければ生活を成り立たせることができなかったと思います。
この記事を読んでいるあなたが募金した、ほんの1円や10円程度のお金が、自分のように1,000人の学生生活の支えになっています。
募金してくださった方1人1人にお礼を言って回りたいところですが、さすがに無理なので、この記事をもってお礼をさせていただきます。
あなたのほんのすこしの気持ちで救われました。
本当にありがとうございました。
これからのスガワラについて
長々と書いたとおり、自分は旅が大好きです。
旅をしていく中でたくさんの方にご飯を奢っていただいたり、差し入れをいただいたり、寝床を提供してもらったこともありました。本当にたくさんの方にお世話になりました。
たくさんの方の募金によって成り立っている、「夢を応援基金」では全国中の方にお世話になりました。
今度は、自分が社会に恩返しする番です。
社会へ踏み出す1歩目は、理学療法士として踏み出すことになりました。
正直、いつまで続けるかはわかりません。
自分自身、1番の社会貢献は「お金を使うこと」だと考えています。綺麗事をすべて取っ払った結果、自分の中ではこれに至りました。
自分自身の生活を豊かにするためではなく、自分がとことんお世話になった社会が豊かになるためにお金持ちになりたい。
ヒッチハイクしている若者がいたら、車に乗せたり、飯も奢りたい。
食いっぱぐれているクリエイターがいたら、積極的に資金援助をしていきたい。
社会にお金を回すために「お金持ち」になりたい。これが今の自分の中での最終目標です。
一番の支援はお金を回すこと
どんな綺麗事を述べようが、結局は被災地にお金が回ってこないと復興も進めようがありません。
是非とも被災地を訪れてみてください。小ぢんまりとした食堂に入って、お店の自慢の料理を食べてください。ちょっとした商店で地元の特産や、名物のおみやげを買ってみてください。
被災地に行かなくとも、ネットショップで買い物をするという手もあります。
僕の地元は大船渡なんですが、わかめや塩うにのような海産物、かもめの玉子というお菓子は絶品なので是非とも味わってみてください。
7年が経ちました
震災から7年が経ちました。
あのとき中学校を卒業直前だった自分は、無事に大学4年間を終え、卒業しました。
自分は被災地には1ヶ月しか滞在していないため、あまり偉そうなことは言えません。
この7年で復興が進んだかどうかも、ずっと外に出ていた身なので正直わかりません。
確実に言えるのは、街によって速度に違いはあれど着実に前に進んでいるということ。
なんか良いこと言おうと思って締めようかと思ったけど、涙が溢れてきてなんも考えられなくなったんで思いついたら追記します笑
あなたのほんの少しの思いやりは、確実に誰かが精一杯生きる糧になっています。
これが言いたかっただけです。笑
ここまで読んでくださった方、長くて稚拙な文章でしたがありがとうございました!
それでは!
2 件のコメント
太陽の家のボランティア懐かしい!もう5年くらい前ですね☺️
おお!!お久しぶりです!
あれから5年経ったとか早すぎですほんと笑